ドラッカー的:コミュニケーションの扉を開く魔法の言葉と「対立」について

前編「コミュ力:生活がラクになるコミュニケーションのドラッカー的原則を井坂康志さんに聞く」に続けて、ドラッカーの言葉から編み出した、コミュニケーションの原則を深めていきます。

コミュニケーションを可能にするマジックワード、そして対立・葛藤といった、できれば避けたいコミュニケーションの結果にまで議論が及びます。

扉を開く魔法の言葉

 

いや、初めて聞く話ばかりで驚きました。妙に新鮮です。どうして誰も教えてくれなかったのだろう。コミュニケーションはどう鮮やかにプレゼンすることかとばかり思っていましたから。

 

いやいや、立派です。あなたにはしっかりした理解力がある。では、特別に──今日だけ特別ですよ──ひとつ魔法の言葉を教えて差し上げましょう。ドラッカーもよく使っていた言葉です。

 

魔法の言葉?

 

 

知りたいですか?

 

もちろんです。教えてください。

 

すばらしい。あなたはすでに魔法の言葉を知っている。

 

ぼくが? 魔法の言葉を? 

 

「教えてください」とあなたは言いました。

 

ええ、確かに。

 

わからないことや不安なこと、迷うことがあったら、人に「教えてください」と口にしてみてください。あっけなく扉は開きます。あなたに大切なことを教えてくれます。好感さえ持ってくれるでしょう。「教えてください」たった一文です。

 

そんなに簡単なのですか……?

 

間違っても、「知っています」とか「わかっています」なんて言ってはいけません。まして、「同じ話は前に聞きました」なんて言語道断。相手の心の扉を堅く閉じる呪いの言葉ですから。絶対だめ。
相手の世界に深く入っていかなければ深いコミュニケーションは成り立たない。そのためには、「わからないので、教えてください」と聞けばいいのです。ドラッカーなども、コンサル先の社長と最初に会うとき、真っ先に行ったのが、このシンプルな問いかけでした。「私はあなたの会社について詳しいことを知りません。何を問題と感じていますか。教えてください」、こんな具合です。
あるいは、ドラッカーは成功した経営者との接点の多い人でしたので、率直に「どうしてこんなに成功できたのですか。教えてください」と聞いていたそうです。
あなたはまだ若いですし、学ばなくてはならないことは星の数ほどもある。たいていはこの一文で親切に教えてもらえます。マジックワードは「教えてください」たったこれだけなんです。

 

要は己をむなしくして問うことなんですね。

 

いいことをおっしゃいます。まさしくその通りです。冒頭に私が言ったことの意味を少しずつ理解されているようですね。うれしいことです。
ところで、私はコミュニケーションに正解はないと言いましたね。あるのは、相手の現実を知って、それに対して応答することなのです。相手の現実を理解できない限り、かりに情報学の博士号をもっていたとしても、コミュニケーションについては稚拙なレベルだということです。そのためには、問いからスタートするということなのです。

 

とは言え、的外れな質問をしてはいないか、と不安になったりもします……。

 

メディアの世界では、ある見解を新聞に出して反応を見るという方法があります。「観測気球を上げる」と言われる手法です。その見解はあくまでも反応をみるためだけのものです。一発で的を射抜けるほど世の中は単純な場所ではないのです。的外れな質問をいくつかして、ようやく相手の意味世界に入ることができるのです。まさに「生産的葛藤」の段階ですね。葛藤は苦しいものです。でも、葛藤を恐れていては前には進めません。

 

もう一つ、問いから入る重要な意味があります。それは、この世の中には一人として同じ人間はないという現実に発する必然なのです。

 

「生産的葛藤」――対立は利用できる

 

同じ人はいない。確かにそうですね。たぶんぼくがコミュニケーションに対してやや恐怖感を持ってしまうのはそれが原因だと思います。明らかに自分とはまったく考え方や世界観の違う人たちがいて、自分の言ったことが曲解されたり、一方的な意見を押し付けられたりされたらと思うと不安になって身構えてしまうのです。
時々ゼミやサークル、バイト先などでも経験するのですが、意見の対立がぼくは嫌なんです。人と意見が違うとつい思考が停止してしまったり、言葉が荒っぽくなって、いらいらしたりします。

 

ようやくそこまできましたね。いいですか、私自身よく反省させられることなのですが、小さい頃からこんなふうに教わりませんでしたか。「相手の気持ちを考えて行動しなさい」と。

 

はい。よく親や先生から言われました。

 

残念ながらたいていはうまくいきません。相手が偶然あなたと同じ考えだったらうまくいくでしょう。しかし、ほぼありえない想定です。相手はあなたとは生まれ育ちも、考え方も、世界観も、時に思想・宗教、国籍も、何から何まで違うのです。

 

なぜなら、相手はあなたではない。当たり前のことです。

 

ああ、そうです。何だか胸が痛くなってきた。年上の人や異性、自分とはタイプのまったく違う人……、とにかく自分との距離が遠い人とのコミュニケーションは、ストレスに感じたりします。

 

そうであるならば、私たちは世界に対する考えを少しばかり修正しなければならない。「この世界は調和的にできてはいない。本来違う者同士が対立しているのだ」と。
理由は簡単で、この世界に同じ人など一人もいないから。世界が対立に満ちているのは何もあなたのせいではない。神様は世界をそういう風に作ったのです。
私たちにできるのは、そのような多様極まりない世界を自身の成長に利用すること、それだけです。

 

利用するのですか?

 

そうです。利用するのです。それこそあなたの言う年上の人や異性、自分とはタイプのまったく違う人、自分との距離が遠い人の異なる考え方を貪欲に自分の成長に役立ててしまうのです。違う人たちはみな素敵な先生。それがドラッカー流です。
ちょっと想像してみてください。私たちは川に住んでいる魚のようなものだと。たくさんの大小の魚が川には住んでいますね。鯉とか鮒とかどじょうとかウグイとか……。魚だけではありません。水草も、ザリガニも、タニシも、ヒルも……とにかく数えきれないくらいいろんな生き物がいる。

 

はい。川の中を想像しています。

 

では聞きましょう。魚は、川の水の流れを変えることができるでしょうか。自分に都合のいいように、流れに手を加えることができるか。

 

できません。できるはずがないです。

 

そうですね。私たちにとっては、世界というのは川のようなものです。それはあまりに巨大な生態であって、一挙に変えてしまうことなど不可能だ。けれども、魚が川の流れを利用して生きるように、変化していく世界を利用することはできます。現に川の生き物はそんな風に見事に棲み分けて生きているではないですか。

 

確かにそうですね。

 

私たちの住む世界もどんどん変化している。ならば、起こっている現実を利用する。そんなふうに考えてみたらどうでしょう。

 

とすると、対立に満ちた世界を自分の成長に利用する。そういうことですか?

 

あなたは実に賢い。その通りです。私はそのような対立を利用する姿勢を「生産的葛藤」と呼んでいます。

 

それはまた大胆ですね。

 

反対に誰もが自分と同じように世界を見ていると仮定したらどうでしょう。もっとひどくなると、自分の考えだけに意味があって、他の考えには意味がない。自分だけが正しくて他はみんなまちがっている。無意識でもそんな風に前提していたとしたら。
コミュニケーションに対して破壊的なのは火を見るより明らかだ。
とするならば、私たちは反対意見を積極的に収集しなければならないのです。なぜなら、そこには、自分に知りえない、見ることのできない貴重な現実の片鱗が潜んでいるからです。

 

マネジメントでは、「全会不一致の原則」と呼びます。

 

「全会不一致の原則」、おもしろそうですね。教えてください。

 

ドラッカーが1946年に書いた『企業とは何か』に、GMのCEOだったアルフレッド・スローンが、年に2回、現場の従業員を交えて行った会議の記述があります。
重要な案件を決定する際にスローンは「この案に反対する人はいませんか?」と問いを投げかけたという。誰も反対する人がいなければ、「では、決定は次回にしましょう」と言って決裁を見送ったと言う。

 

なぜ反対意見のない決定をスローンは避けたのか。

反対意見がないということは、全員が現実の一つの側面しか見ていない、もしくは何も見ていないからです。あるいは何も考えていないからです。
現実には多様な側面があります。本人にとっては快い香水の匂いが、隣の人には耐えがたい。自分にとって快い音楽が、他人にとっては苦痛にもなる。それが当たり前です。反対意見がないほうがどうかしているのです。だからわざと「反対意見を持つ人はいませんか?」と訊いたのです。

 

なるほど。さすが名経営者ですね。ぼくだったら、反対意見がないことは、ものすごくいい提案の証明だと思ってしまうでしょう。逆なのですね。

 

「異論を利用する」発想があるかないか、それだけの違いです。この方法をドラッカーは「想像力の栓」と呼んでいます。人は自分と違う意見に耳を傾けるとき、想像力が触発されるからです。自分の発想にない意見に接したとき、ふたがぽんと抜けて、瓶の中の想像力が溢れて出てくる。それを「想像力の栓」というのです。
もし相手の意見が受け入れられないと直観的に思っても、「そういう考え方・感じ方もあるか」「この意見を採り入れて、より良い理解やアイデアにつなげられないか」と考える、ということです。

 

さきほどあなたが言った、自分との距離が遠い人とのコミュニケーションも同じです。うまく会話しようなどとは思わず、自分が知らないことを教えてくれる人と考えれば、苦手な状況も学びの機会に変わるかもしれません。「われ以外みなわが師」とはまさにそのような意味に解釈できるのではないでしょうか。

 

何から何までぼくの考えの逆をいくような説ばかりで驚かされます。

 

礼儀は武器になる──二つの距離感

 

最後に一つ伺っていいですか?

 

もちろん。何でも。

 

実はいま、アルバイト先の店長とうまくいっていないんです。そりが合わないというのでしょうか。どうもうまく意図が汲めないんです。それもあって、よく怒られます。まあ、バイトだから別にいいといえばいいのですが、就職してからも上司は必ずいるわけですし、どうも先が思いやられるというか。
上の人とうまくいかないというのは、本当に苦しくて、どうもぼくはかわいがられないというか、どうすればいいかわからないのです。アドバイスなどいただけませんか。

 

私はアドバイスは基本的にはいたしません。賢い人は私のアドバイスなどはじめから不要ですし、愚かな人はアドバイスしても反発するだけです。どちらにしてもアドバイスは徒労に終わるというのが私の経験の教えるところです。しかし、ぜひともというのなら話は別です。少しばかり相談に乗ることにしましょう。

 

よくわかりますよ。苦手な人がいるわけですね。ただでさえ、苦手な人と接するのはつらいのに、上司ならなおさらです。バイトをやめてしまうのも一案ですが、別なところに行けば別の苦手な人がたいていいますからね。

 

そうなんです。

 

私自身そんな面倒なことは山ほど経験してきましたので、私見も交えてお伝えしますがよろしいですか?

 

もちろんです。教えてください。

 

すばらしい。早速腕を上げましたね。「教えてください」と言われると何とかして役に立ちたいと思うのが人情です。お話ししましょう。

 

一つは、人を変えることはできない。本人が変えられない自分自身をあなたが変えられるはずがない。人間を変えるという試みはほぼうまくいかない。やめた方が得策です。

ではどうすればいいか。相手の自分との距離を適度に調整することです。

 

適度な距離ですか?

 

そうです。先ほど対立さえ利用すべきとお話しました。そのためには、相手を正確に観察できなければなりませんね。好きになる必要はないのです。仲良くなる必要もない。ただし、理解しなければなりません。そのためには、適度な観察のための距離はどうしても必要です。

 

私は多少の冗談も込めて、二つの距離を心がけています。

一つは「スープの冷めない距離」。これはコミットメント、すなわち何かあったときに駆け付けられる距離感です。もう一つは「パンチの届かない距離」。これはデタッチメント、すなわち万一殴りかかられてもこぶしが空振りするくらいの距離です。
いかがでしょうか。この二つがあれば、観察しつつ、関与できるのではないでしょうか。
たいていの人間関係の問題は、距離が近すぎるのが原因のように私には見えます。自他の間に適切な間合いを置くこと。まずはそこから始めてみるのはいかがでしょうか。

 

なるほど。ぼくはコミュニケーションというと、「相手に何を言うか」ばかり考えていました。けれども、先生は一度も、何を言うかについて言及しませんでしたね。

 

はい。一度も。それは後からでも十分に考える時間があります。その前に、相手の意味世界を理解しなければならない。
実は唐突に聞こえるかもしれませんが、距離感を維持することは、礼儀の基本なのです。柔道でも、剣道でも、まずは相手との距離を確認して礼をとるところからはじめます。家族や友人との付き合いなら思い切って距離を詰めてもいいでしょうが、仕事のコミュニケーションなら、距離を置いて、礼儀正しいほうが圧倒的に有利です。礼儀正しいことは、武器になることなんです。それによってたくさんの欠点を覆い隠してくれますから。

 

なるほど。けれども、距離も人によって変えたほうがいいのでしょうか。

 

もちろんです。「人によって態度を変えてはいけない」というのはコミュニケーションをかえってこじれさせる原因です。誰に対しても同じ距離感で臨んだらどうなりますか。友達と話すように上司と話したらどうなるでしょうか。社長室のドアを、自宅のトイレのドアのようにノックしたらどうなるでしょうか。

 

メールなどでも同じです。できれば、ふだんから丁寧な言葉を習得しておいた方がよいでしょうね。旧約聖書の箴言にもありますが、「たいていのトラブルは言葉に原因がある」からです。「何を言うか」よりも「どう言うか」のほうが現実のコミュニケーションでは大切なのです。慇懃無礼になる必要はないにしても、丁寧に言われて嫌な気持ちなる人などいないのですから。

まあ、こんな偉そうなことを言いつつ、この年になっても私はしょっちゅう間違ってばかりです。そこで話は初めに戻ってくる。コミュニケーションの正体は幽霊みたいなもので、誰も実物を見た人はいないのです。いろんなところに頭をぶつけて痛い思いをして、ようやく見られるレベルになるのでしょうね。

 

とても励まされました。ぼくみたいに不器用な人間でもなんとかなりそうです。もしよかったら、これまでの話を原則として示していただきたいのですが、いかがでしょうか。メモ帳に書いていつも持ち歩きたいものですから。

 

お安い御用です。メモしておきましょう。ご健闘を祈っています。

 

コミュニケーション5か条
  1. 相手と自分は違う人間であると知れ。
  2. まず耳を傾けよ
  3. 異論を創造的に利用せよ
  4. 適度な距離感を心がけよ
  5. 礼儀正しさは武器になる
※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

 

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