歴史社会学者・小熊英二さんと考える、未来の働き方と生き方(前編)

「日本は右肩下がりで、これから先は大変な時代」といった言葉をよく耳にします。それは本当なのでしょうか。本当だとしたらこの先、どう生きればいいのでしょう?

そこで今回は、歴史社会学者の小熊英二さんにお話を聞きました。小熊さんは膨大な資料をもとに社会の構造や意識の変遷を読み解く研究をしていて、2019年には『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』を出版しました。そんな小熊さんの考察を元に、未来に対して今からできること、未来をどう作っていけばいいかを解き明かしていきましょう。

取材協力:

小熊英二さん

1962年東京生まれ。東京大学農学部卒。出版社勤務を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。学術博士。主な著書に『単一民族神話の起源』(サントリー学芸賞)、『<民主>と<愛国>』(大佛次郎論壇賞、毎日出版文化賞、日本社会学会奨励賞)、『1968』(角川財団学芸賞)、『社会を変えるには』(新書大賞)、『生きて帰ってきた男』(小林秀雄賞)、『日本社会のしくみ』など。

地域や家族のつながりが低賃金を補っていた

 
──これから日本は大変な時代になるといわれ、将来に不安を感じる人も少なくないですが、実際のところどうなのでしょう?

これまでも時代ごとにさまざまな大変さがあったと思いますが、今は何が大変かというと、昔よりもいわゆるソーシャルキャピタル(地域における信頼関係や結びつき)が落ちていることです。昔は低賃金の人が多くてもなんとかやっていけたのは、地域や家族の助け合いがあったからなのです。

年齢とともに賃金が右肩上がりに上がっていく“年功賃金”をもらえるような大企業型の正社員は、昔も今もおそらく全就業者の3割弱しかいません。戦前はおそらく1割もいなかったでしょう。5%ほどだったかもしれません。それが戦後から高度経済成長期に労働運動の成果として増えていき、70年代に約3割に達し、今に至ります。非正規雇用の増加などで、そうした大企業型の人は減っている印象があるかもしれませんが、その割合は40年近くもほぼ変わっていないのです。

一方で、正社員そのものの割合は現在、全就業者の5割強です。で、大企業型の人が3割弱だとすると、“年功賃金”ではない正社員が同じくらいの数いるはずですが、それはどういう人たちなのでしょう?それは例えば、アパレル、不動産、金融などの業界でよく見られる、“営業成績次第”という賃金体系の人たちです。基本給は出るけど、それ以上もらうには営業成績にかかってくるという形態ですね。

そして正社員以外の残り4割弱の就業者が非正規雇用と自営業者になります。実は正社員の比率は、80年代からほとんど変わっていません。ただし、非正規労働者は増えています。この40年ほどの傾向は、正社員はあまり変わらず、自営業者が減り、非正規雇用がどんどん増えているという流れです。

つまり、正社員以外の「下半分」が、自営業から非正規雇用に入れ替わっていると推測できます。つまり、昔から正社員でない人は多かったのです。

 

総務省『労働力調査』より作成(単位:万人、講談社現代新書『日本社会のしくみ』より)

 
──昔は低賃金の人たちが多くてもなんとかやってこれたというのは、どういうことですか?

いろいろな理由がありますが、特に自営業の人たちの場合、やはり地域や家族の助け合いがしっかり機能していたことが大きいでしょうね。町内会や自治会、商店会などの機能がきちんと働き、地域社会を支えてきた。また親族から受け継いだ持ち家や畑があったり、家族・親類のつながりが強かったりで、収入の少なさを補うことができた。

また昔は非正規雇用といっても、農家の副業、たとえば農閑期の出稼ぎとか、期間工などが多かった。つまり農家のなかの誰かが、一時的に非正規雇用になることはあっても、農家としての自営業が中核で、その補助という位置づけでした。あるいは、“営業成績次第”の正社員の場合も、妻がパート労働に出るなどして、共稼ぎでなんとかやっていたわけです。

ところが自営業者が減って非正規雇用が増えているということは、世帯が丸ごと非正規労働者になったり、親族から離れて一人で非正規労働者をやっていたりという人が増えているということが考えられます。そうなると当然、現金支出も増えてきます。たとえば家を持っていて田畑で自給用の野菜やコメを作りながら本業で収入を得るのと、畑も土地もなく家賃を払いながら低賃金を受け取るというのでは、全く違いますよね。

また地域社会を支えていた自営業者が非正規雇用になったり、高齢化したりすると、地域や家族のつながりが希薄になってきます。ここ30年ほどで、そうした家族や地域の相互扶助、つまり社会関係資本が急速にやせ細っていると考えられます。

スペシャリストが育ちにくい会社構造

 
──職種や雇用に関しては、我が国はいまどんな現状にあるのでしょう。

日本の官庁や大企業の雇用慣行では、中核になるのはジェネラリスト(広範囲の知識を持つ人のこと。総合職)の人たちで、それは文科系と呼ばれる側に多かったのです。たとえば官庁では、基本的に文官と技官とに分かれていて、それが大学の文系・理系の区切れめでもあったわけですが、出世コースに乗るのは文官です。技官はいうなれば“雇われのスペシャリスト”という立ち位置です。だから一部の例外をのぞき、技官が省庁の次官などの役職に就くことはあまりありません。

また日本は専門職が育ちにくい構造になっています。たとえ学生時代に専門性を高めても、会社に入ると配置転換がよく起こり専門以外の職種にも配置されるので、スペシャリストが育ちにくいのです。そこで80年代・90年代以降には、専門職は外部からの派遣でまかなっていこうという議論が、経済団体連合会や日本経営者団体連盟で起こりました。(※)ただその後、派遣は柔軟型雇用の供給元という形になってしまい、専門職の派遣という形は根付きませんでした。

(※)2002年、経済団体連合会と日本経営者団体連盟が統合され、日本経済団体連合会(現在の経団連)が発足した。

かわりに定着していったのが、専門職にあたる部分は、プロジェクトチームごと下請けの会社に出すという形です。もともと70年代ごろからその流れはありましたが、いろいろな高度技術、とりわけWEB構築などIT系の新しい部分の多くは、下請けの外注に出すという流れになっていきました。現在、その傾向はより色濃くなっています。

 
──そうした構造は日本ならではのものなのですか?

他の国では一度専門職に就いたら、その職種を保ったまま会社や役職を変えて、キャリアを積んでいくのが一般的です。たとえば大学で会計を習って、A社の会計職に就いた後、A社で会計の仕事がなくなったり、他社でより高い賃金の会計職が見つかったりすれば転職し、そこでまた会計職の経験を積む。あるいはA社の中で、よりランクの高い会計職に応募して昇進する。企業内で職種がどんどん変わる日本のスタイルとは大きく異なります。

日本の人事・採用システムは、かなり特殊

加えて他の国では、職の評価基準がそれなりに確立されています。それは職業別の労働組合やギルドなどの伝統に基づいていたりするのですが、たとえば機械工の職業別組合に所属して、いろいろな企業で機械工の一定年数の経験があると、熟練工の証明書が出たりしました。組合が提携する大学院で学位を収めれば能力証明が出たりします。そうした能力証明により、見合ったポストに就けるようになっているのです。

このシステムでは、技術系とか経営系とか教育系とか、とにかく学位を持っていることが非常に重要になります。博士号をもっているのと、修士号、学士号しか持っていないのでは、就ける職が違ってくる。要は資格社会なのです。就ける職が違うと賃金も違うので、博士卒と修士卒と学部卒では、初めから格段に違ってきます。だから大学院の進学率が高く、博士号の進学率も非常に伸びています。したがって、もし他の国で活躍したければ、博士号はぜひとっておきたいところです。

採用に関しても、この学位があって経験年数が何年でこれだけのスキルがあるといった基準があり、それによって就ける職が決まってくるので、雇われる際の面接もそんなに何回も会わなくても済むような形になっています。ついでにいうと日本のような就職活動はなく、企業が人を採るのはたいてい欠員募集です。ここの会計職が空いたから、社内募集と公募の両方をかけ、社内で適役の人がいれば昇進させ、いなければ公募で条件を満たした人を採用するというような形です。

対して日本は、修士はまだしも博士過程に進む人は多くありません。なぜなら日本のシステムだと年齢が高くなるほど賃金を上げなくてはならず、企業としてはとくに専門を重視する必要がないのなら、大学院卒や学部卒の方が安く済むので採用しやすいのです。さすがに技術系の職だと学士よりは修士を評価することが多いようですが、博士号に対する企業の評価はそれほど高くありません。実際、博士卒の年俸は、修士卒に年齢分を足しただけの企業が多いという話を聞きます。

採用に関しては、他の国のような能力証明の基準が明確でないため、面接や人事にものすごい手間をかける必要があります。ほとんど1年間行事のような形で新卒採用を行い、同じ人に5回も6回も会って見極める。だから人事部の人数も異様に多い。こうした採用・人事のスタイルは、グローバルの中ではかなりイレギュラーです。

日本の強みは、技術力ではなかった

 
──そうした状況をふまえ、この先日本の会社はどうなっていくと考えますか?

大手といわれるような会社に入っても、20年くらい先はけっこう大変かもしれません。というのも大手は今、いろいろな意味で苦しくなってきています。その一つが、技術開発力が追いつかなくなっていること。日本では自社で抱える修士卒を中心に技術開発していく形なので、世界各地から博士卒を集めてくる仕組みに比べ、さまざまな面で限界があります。

そもそも日本の大手メーカーの多くは、最初は技術開発力が高くて大きくなったわけではないのです。日本の大手メーカーは、多くが官業と、官業の納入業者として事業をおこしています。典型的なのが電力、ガス、鉄道、電気通信といった事業。これらはもともと官業で、そこにいろいろなものを納入していたのが東芝や日立、富士通だったわけです。日産やトヨタも戦前・戦中は軍隊へトラックを納入していました。

その後そうしたメーカーは、高度経済成長期に国内向けに家電製品や乗用車を販売し、ある程度の成功を収めたうえで、70年代以降に世界へ大々的に輸出するようになりました。そして、20~30年ほどそうした時期が続きました。

とはいえ前述の通り、もともと日本のメーカーはもとから技術力が高かったわけでも、国際競争力があったわけでもなかった。それでもグローバル市場に打って出られた大きな理由の一つは、現場のモラルが非常に高く、製品開発の提案や品質改良などをとても熱心に現場労働者がやったところにあります。日本のメーカーの強さは、現場の品質や改善能力の高さだったのです。これは多くの経済学者や国際的な評価でも一致している点です。

技術力より“コンセプト”が重要な時代に

ただ90年代、00年代になってくると、汎用品ではコストの点から中国などのメーカーに勝てなくなってきます。そしてどうなったかというと、家電メーカーが典型的ですが、また“官業納入業者”に戻ってきている印象をうけます。たとえば家電がダメになったから原発に切り替え、原発もダメになったのでエレベーター納入業者になるといった形です。このままいけば日本のメーカーは、民需品では競争力を保てず、“官業納入品”と大手メーカーへの納入品という形で運営していくことになるのではないでしょうか。

またもう一つ言及すると、ものづくりに関しては2000年代後半以降はっきりと、技術開発力よりも製品のコンセプトを考える部分が重要になってきています。iPhoneなども、決して技術開発の産物ではなく、デザインとコンセプトの賜物です。あとは既存の技術を組み合わせ、あちこちの国の工場に発注するマネジメントですね。こういうコンセプト開発は、工場現場の改善努力を積み重ねるよりも、アイデアのある天才肌の人が一人いたほうがよかったりする。そういった部分が日本のメーカーは弱かったわけです。

ただ現場の力で対応する部分、たとえば部品の製造力、素材の質の高さ、製作機械の精度といった部分では、日本は今も高い競争力があります。だからこそ、まさにiPhoneが典型的ですが、アメリカでコンセプトとデザインを作り、日本の部品を中国に移送し、中国で日本の部品を組み立てるという図式になっているのです。しかし、これがいつまで続くかはわかりませんし、またこれは現代のビジネスでは一番もうかる部分ともいえません。

そういったことふまえると、たとえ日本で大手メーカーに雇われても、この先はけっこう大変だろうなと感じてしまうのです。

こうした社会や会社の現状に対し、どう対処していけばいいのでしょう。そこで後編は「この先はどう働き、どのように生きればいいか」をテーマにお届けします。

小熊さんは言います。「“自分の専門とする分野以外は何もできない”というのでは難しい時代です。だからこそ『世の中をきちんと知ること』がとても重要になります。」

【歴史社会学者・小熊英二さんと考える、未来の働き方と生き方(後編)】

※本記事は取材により得た情報を基に構成・執筆されたものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

 

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