歴史から何を学ぶのか【相澤理氏歴史入門:第二回】

 相澤理さんの歴史入門、後編をお届けします。後編のテーマは『歴史から何を学ぶのか』です。相澤さん流の歴史入門をお楽しみください。

前編はこちら
「歴史」の面白さを知ることと、その意義について【相澤理氏歴史入門:第一回】

「歴史はくり返される」は本当か?

 
 前回の記事で、筆者は歴史の〈流れ〉という表現を好まないという話をしました。たしかに、おのずから〈流れる〉だけならば、歴史から学ぶ意味はないでしょう。さまざまな史実が織りなす必然、つまり、〈しくみ〉を見出してこそ、私たちはそれを学び、未来に生かすことができます。

 同様に、史実が〈一回限り〉の出来事であるという捉え方にも筆者は否定的です。たんに〈一回限り〉の出来事であるなら、やはり学ぶ価値はありません。あまたの〈一回限り〉の出来事のなかに、共通する要素を見出す。つまり、〈一回限り〉の出来事を成り立たせているものを探究してこそ、歴史に学ぶ価値はあります。

 「歴史はくり返される」と言いますが、それは、歴史から己に資するものを引き出そうとしてきた、人類の知的営みの結果とも言えるでしょう。

 実は、筆者がその魅力に取りつかれた東京大学の日本史の入試問題(以下「東大日本史」と略します)は、くり返される歴史を時代横断的に問うてきました。今回の記事ではそれをご覧いただきたいと思います。

 

東大日本史の問題から

 

設問

 この時代(筆者注:8世紀)の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際との差に注目しながら、6行(筆者注:180字)以内で説明しなさい。 (2003年度第1問)

 
 単純に外交上の出来事を問うのではなく、「唐との関係と新羅との関係」の「もつ意味」の「違い」を論じさせるというのが、東大日本史らしいですね。「たて前と実際との差に注目しながら」というただし書きもそそられます。 
さて、本問では考える材料として資料文が与えられていましたので、読者の皆さんも読みながら問題をお考えください。

  • 【1】律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

 前近代の東アジアには、「中華思想」に基づいて、「冊封体制」と呼ばれる伝統的な国際秩序がありました。中国を天下の中心とみなして、天命を受けた天子が治め、周辺から異民族が天子の徳を慕ってやってくるという考え方、これが中華思想です。そして、その考えは、周辺諸国の支配者が中国皇帝に朝貢し、中国皇帝は爵位を与えて支配権を認める、という形で外交にも反映されました。要するに、中国皇帝と周辺諸国の支配者は君主と臣下の関係にあったわけで、こうした君臣関係による国際秩序を冊封体制と言います。

 しかし、資料1では、日本の朝廷は唐を「隣国」と称していたとされています。つまり、冊封を受けていない、唐とは対等である、というのが「たて前」だったのです。

 一方、新羅などの外国は「外蕃」「蕃国」と呼んでいたとあります。これは、冊封体制の日本版(日本版華夷秩序)とも言えるでしょう。唐とは対等の関係を主張しつつ、新羅は臣下の立場に位置づける、という外交姿勢がうかがわれます。

(出典:『東大のディープな日本史』)

 

「たて前」と「実際」のズレ

 日本の朝廷が「たて前」として冊封体制を模倣していたことは分かりました。では、「実際」はどうだったのでしょうか? 続く資料2にはこうあります。

  • 【2】遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀を受ける儀式)に参列した際、日本と新羅が席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

 「臣下から祝賀を受ける儀式」とあるとおり、唐は日本を臣下として位置づけ、日本の使者もそのように振舞っていました。それが「実際」です。そして、新羅とも「席次を争った」というのですから、確固たる君臣関係があったわけではありません。このように「たて前」と「実際」にはズレがありました。
 そのズレが摩擦を生じさせることもあったでしょう。それを示すのが次の資料3です。

  • 【3】743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受け取りを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

 「調」ではなく「土毛」だという主張から、新羅が臣下の立場に置かれることに反発していたことが分かります。「たて前」は両国間の「緊張」を生む要因でした。
 しかし、それが決定的なものではなかったことは、最後の資料4から読み取れます。

  • 【4】8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

 「実際」は、漢詩をよみかわしたり交易をしたりと私的な交流が行われていたのです。このように、「たて前」は「たて前」として軽やかにすり抜ける姿勢は、私たち現代人も隣国との付き合い方として学ぶべきものがあるでしょう。

 

「歴史はくり返される」からこそ学ぶ意味がある

 
 ところで、日本版華夷秩序として図示したように、その時代の最も強い国(中国・アメリカ)を模倣しながら、他国にはその強国と同じように振舞うという姿勢は、日本の歴史においてよく現われます。まさに「歴史はくり返される」のです。次の東大日本史の問題はそこを問うてきました。

 

(問題文前略)山鹿素行はその一方、1669年の序文がある『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや、王朝の交替がなかったことなどを根拠に、 日本こそが「中華」であると主張した。

 

設問

 下線部のような主張が生まれてくる背景は何か。幕府が作りあげた対外動向を中心に、この時期の東アジア情勢にも触れながら、3行(筆者注:90字)以内で述べなさい。(2003年度・第3問B)

 
 現在の教科書では、江戸幕府は「鎖国」を行っていたというステレオタイプな捉え方はしていません。長崎出島でオランダ・中国と貿易を行うとともに、対馬を介して朝鮮から、薩摩を介して琉球から使節が来日しました。また、松前氏と主従関係を結び、アイヌとの独占交易権を認めていました。出島・対馬・薩摩・松前の4つ窓口で開いていたということで、これを「四つの口」体制と言います。

 ここで、朝鮮・琉球からの使節は、徳川将軍に対する朝貢の形をとったということに注目してください。臣下の立場である松前氏も同様です。江戸幕府も日本版華夷秩序を志向していたと言えます。

 こうした「幕府のつくりあげた対外動向」のもとで、「日本こそが『中華』である」という主張も生まれてくるのです。そこに、1644年に明が滅び、異民族である満洲族の清が中国全土を統一するという状況が加わります。一方で、日本では天皇家が綿々と続いています。この事実は、山鹿素行ら知識人の(やや歪んだ)自意識を満足させたに違いありません。「歴史はくり返される」のです。

 では、なぜ「歴史はくり返される」のでしょうか? 日本の地政学的な事情によるのか、民族的な特性によるのか。史実を探究する学問である歴史学は、明確な答えを出してはくれません。しかし、たしかに「歴史はくり返される」のです。しかも、無意識のうちに「歴史はくり返される」のであり、これからも「歴史はくり返される」でしょう。だからこそ、私たちは歴史を学ばなければならないのだと、筆者は考えています。

 そのように歴史を学ぶには、優れた問いに導かれるのが何よりです。この国の〈しくみ〉に鋭く問いかけ続ける東大日本史の問題を、拙著『歴史が面白くなる東大のディープな日本史』(KADOKAWA)で堪能していただけたらと思います。

 

【書籍紹介】

歴史が面白くなる東大のディープな日本史

著:相澤理(KADOKAWA)

東大日本史入試問題を題材として、日本史の出来事や制度の、あまり知られていない「側面」を考えることができる一冊。タイトル通り『ディープ』な歴史の世界に引きずり込まれます。東大の入試問題で、あなたの知っている「歴史」を見直してみてはいかがでしょうか。

 

※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

 

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